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真田昌幸 年表  |
1547年
(天文16年) |
真田幸隆の三男として生まれる。 |
1553年 7歳
(天正22年) |
武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称した。 |
1561年 15歳
(永禄 4年) |
初陣。第四次川中島の戦いで、足軽大将となり武田家奉行人にも加わった |
1569年 23歳
(永禄12年) |
後北条氏との三増峠の戦いでは使番を務める。 |
1572年 26歳
(元亀 3年) |
信玄の上洛作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加している。 |
1575年 29歳
(天正 3年) |
長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続した。 |
1578年 32歳
(天正 6年) |
越後の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると昌幸は北条氏の所領であった東上野の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃城などを奪取。 |
1579年 33歳
(天正 7年) |
従五位下、安房守を叙任する。 |
1581年 35歳
(天正 9年) |
勝頼の命令で新たに韮崎へ築城された新府城の作事奉行を務めた。 |
1582年 36歳
(天正10年) |
3月、織田信長による武田征伐が開始される。昌幸は勝頼に甲斐を捨てて上野吾妻に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は小山田信茂の居城・郡内岩殿城を目指して落ち、途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵され、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。
6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、旧武田領の織田勢力は衰微し甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐって徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが争う(天正壬午の乱)。昌幸は一益の配下として神流川の戦いに敗れると氏直に臣従し、北条家の信濃侵攻の先手を務める。しかし、一転して家康の懐柔に乗り北条を裏切る。これが契機となって、若神子で徳川と対陣する北条は和睦の途を選択する。しかし、北条との大同団結を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。 |
1583年 37歳
(天正11年) |
昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた。 |
1585年 39歳
(天正13年) |
真田氏の制圧を狙った家康と氏直は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた(上田合戦)。昌幸はわずか2000の兵力[3]で徳川軍に1300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている。この第一次上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは少なくとも二度以上再戦があったとされる。
同年には次男の信繁(幸村)が景勝の人質から盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従する。 |
1586年 40歳
(天正14年) |
佐久に侵攻、後北条氏の沼田城攻めを招き家康との対立も続いていたが、同年には秀吉が争いを止めさせ昌幸ら信濃の諸大名を家康の与力衆とした。 |
1587年 41歳
(天正15年) |
昌幸は駿府で家康と会見し、大坂で秀吉と謁見し名実ともに豊臣家臣となる。 |
1592年 46歳
(文禄元年) |
秀吉の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城に在陣している。 |
1600年 54歳
(慶長5年) |
7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。
東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。昌幸は僅か2000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われる。秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦める。上田合戦は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍を9月15日(10月21日)の本戦へ遅らせた。
関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば昌幸と信繁(幸村)は上田領没収と死罪が下されるが東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され、上田領は信幸に与えられたという。12月には紀伊高野山山麓の九度山に蟄居する(当初は高野山配流であったが信繁が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われている)。
九度山では、国許から援助を受けつつ真田庵で暮らす。後世に便利物と名高い真田紐を作成して販売したという。晩年には赦免を願っている。 |
1611年 65歳
(慶長16年) |
病を得て、病没。享年65。 |